SIREN Inc. 代表取締役

三堀大介 Daisuke Mitsubori


1989年東高卒。武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業後、株式会社パルコプロモーション(現パルコスペースシステムズ)デザイン部に入社。パルコのディスプレイ、エキシビジョンなどのディレクターを経てフリーランスとして独立。デザイン事務所SIREN Inc.(http://www.siren-japan.com/)設立。

スケジュール

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伊勢昇平 Shohei Ise

2004年旭川東高等学校を卒業、帯広畜産大学に入学。2008年に同大学を卒業後は、1年半にわたり十勝

鈴木 聖史 Suzuki Satoshi

旭川東高校卒業後、1年の浪人期間を経て明治大学理工学部へ進学。大学在学時より東映撮影所で編集助手とし

三堀大介 Daisuke Mitsubori

1989年東高卒。武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業後、株式会社パルコプロモーション(現パルコス

武蔵野美術大学を目指すことにしたきっかけを教えてください。

もともと映画少年で音楽オタク、絵を描くことやモノをつくることが好きだったので、将来は美術の教員になれたらいいなと考えていました。そんな中、美大を目指して浪人中の東高3つ上の先輩と出会ったのをきっかけに、自分も美術で食べていくことを考えてもいいんだ、と思ったのが、美大に進もうと考えたきっかけです。

 

東高での成績はかなり悪かったですよ。でも高校2年生の後半から、美大という目標ができて、週末や長期休みには札幌の予備校へ通う生活でした。当初は手の届きそうな地方の美大や工芸大を目指していましたが、やっていくうちに欲が出てきてムサビ・タマビランクを志すように。大病を患ったりの苦節3年の浪人生活を経て、やっと当時32倍の倍率だった専攻に合格することができました。大学生活の大半はアジア放浪に捧げてしまうのですが(笑)

美大生の進路というと特殊なイメージがありますが、どのように考えていましたか?

当時は就職氷河期と言われていた最初の時代。大学3年生の後半から、広告代理店、制作会社、メーカーなどを相手にみんなが一斉に就職活動をスタートさせるのを、お祭りのような感覚で楽しんでました。周りの熱の入れようと比べて、僕は決まらなかったら世界一周の旅に出ようと本気で思っていたくらい、緩く考えていましたが(笑)

 

それというのも、就職活動にのめり込む空気に、「手段が目的化しているなぁ」と少し白けた気持ちになっていたのかもしれません。就職で横一線に人生が決まって行くとも、思えなかったですしね。そんな風にフラつく僕を見かねたゼミの教授の紹介であっさり就職を決めました。その手があったのか、という感じ。全然参考になりませんね(笑)

そのパルコプロモーションではどのようなお仕事をされたのですか?

入社後すぐ配属になったのはパルコのディスプレイ担当部署。3年くらいはボロボロになるまで働きました。案件を重ねるうちに、エキシビションの空間デザインから始まり、会社にやれと言われていないポスターのデザイン、展覧会全体の企画・・というように、やりたいことにどんどん手を伸ばしていったという感じです。

映画『猿の惑星』の広告を手掛けられたこともあるとか。

20代の終わり頃に映画『PLANET OF THE APES/猿の惑星』(2001年)の衣装展をディレクションしたときですね。ハリウッドの超大作の製作では、スタイルガイドという分厚い本が配られます。数百人に及ぶ製作スタッフのビジョンや同時進行で進めて行く全世界的なプロモーションを監督の求めるルックに統一するために、その電話帳のような指示書の中で使用可能な色の配合値に至るまで細かく指定されるんですね。また、グラフィックデザイン自体も本国でのデザインをそのまま和訳に置き換えて使うのが原則です。

 

僕はそれまでサブカルばかりで、ハリウッド大作のプロモーションなんて初めて。先ずスタイルガイド通りいくつか暗めのトーンのデザインをつくってみたのですが、すぐできてしまって。それじゃあ何だか面白くないなと思ったので、数日徹夜して全く別のデザイン、スタイルガイドにはない真っ赤なビジュアルのものも作ったのです。これだ!と思いました。

 

明らかに条件違反のそのバージョンも忍ばせてFOXにプレゼンしました。思いの丈を熱く語って。「ティム・バートン監督に赤のデザインでやりたいと交渉しよう。デザイナーがそう言っているんだから」との言葉だけで嬉しかったんですが、それに何と監督サイドからのOKが出て、世界で唯一指定ビジュアルとは全く異なる公式デザインの広告が出来上がったんです。

すごくスケールの大きいお話だと思います(笑)

その広告には後日談があるんです。その広告では、映画本編に出てくる赤い兜をかぶった猿を使ったのですが、本編の撮影では土壇場でその猿の配役が別のキャラと交代されていたのです。でも僕が使ったのは、もともとキャスティングされていた、とある有名な日系俳優が演じた猿。つまり映画には出てこない猿を使ってしまった。そのことを、来日した役者さん本人から知らされました。「本編にはこの役で出られなくなってしまったけれど、この広告で自分の姿を残してくれてありがとう」と片言で言ってもらえたことが、とても印象的でした。

独立にいたった転機は何でしたか?

独立は、パルコプロモーションで7年半勤め上げ、30歳での決断でした。相当程度自由にさせてもらっていたし、このまま勤め続けることが自分の仕事にプラスに働くことが多いのは明らかでした。でも、組織に所属しない生き方というのは、自分にとってそれ以上のプラスに思えたんでしょうね。高校生のときから派閥に属さずに、誰とでも接するタイプ。卒業アルバムを見ていて、話したことがない生徒が学年に一人しかいなかった。そういう生徒でした。

独立に際して、不安はありませんでしたか?

もちろん、ものすごくありましたよ。ただ、会社に勤め続けることを考えたときに、自分の将来がぼんやりと見えてしまうことの不安の方が、独立する不安よりも大きかったということですね。このままでいいんだろうかと焦ってました。だから少しギャンブルしてみたかった。独立してからも、もちろん今だって、不安はあります。ただ、それに「慣れた」だけ、というのかなあ。

 

誰しも向き不向きがあるので、みんなが独立すればいいとは思いません。組織の中でこそ大きな才能を発揮する人もたくさんいる。ただ、独立や起業した人はみんなどこかで、不安をモチベーションに変える自分なりのやり方を見つけて行くものだと思います。スポーツ選手みたいというと分かりやすいかな。

三堀さんをお仕事に向かわせるモチベーションは何ですか?

人の喜ぶ顔が見たい、ということですね。漠然とした話ではなくて、目の前にいる依頼者の顔をその場でニヤリとさせたい、楽しませたいと思います。そして何よりクライアントのお客さんがそのデザインを見た時もう一度クライアントをニヤリとさせたい。映画ならその映画にもっと惹きつけるにはどうしたらいいか。その逡巡が延々と続く感じですね。

やりがいを感じる瞬間を教えてください。

最近の仕事では、「ハーブ&ドロシー」という映画の配給を手がけて、その映画をたくさんの人に見てもらえたことです。安月給で買えて、部屋に飾れるサイズの作品をこつこつ集めるうちに、現代アートの世界的コレクターとなった老夫婦を描いた作品。札幌出身ニューヨーク在住の女性ジャーナリストが監督をし、4年間かけて自費で完成させた映画です。日本での配給が決まらずにいたので、何とか手助けできないかと思って。僕がアートディレクション、ほか編集者や建築家など数名での自主配給。それぞれの分野ではプロですが、映画配給は初心者。5~6ヶ月をかけて全国での配給にこぎつけ、渋谷でのロードショーでは上映館の歴代初日動員数1位、25週のロングランを記録するほど、多くの人に見てもらえる作品となったのは嬉しかったですね。

 

若いときは、「かっこいい」ものができると嬉しかったけど、最近では手がけた作品の売行きがいいと嬉しい。プロとして求められている機能を果たせたことに喜びを感じます。

その心境の変化は、何によるものでしょうか?

その心境の変化には、独立後にプライベートでの作品作りを始めたことが影響していると思います。その分仕事に自己満足を持ち込まなくなりました。デザイナーはお金を出す相手がいて、期限や予算の中で、雑多な条件を整理整頓してお返しする仕事。クリエイターとしての過剰な飾りは要らないんですね。

 

心境の変化と言えば、2010年からコンサドーレ札幌のデザインを手がけだしたこともあり、最近自分の出自、あるいは地元に対する思いが増してきました。プライベート作品でも旭川でロケしたものもあるんですよ。

最後に、東高生へのメッセージをお願いします。

田舎の進学校で、みんなそれなりに賢いので、ローリスクなアンパイを選びがちなんだと思うんです。周りの大人たちもそれを求めているように見えちゃうだろうし。でも、自分の人生についてはもっと自由にオリジナルに考えていい。いつも少し背伸びをしながらガムシャラに欲しがれば、大きく舵をきられるチャンスは必ず来ますよ。

 

(2012年3月 インタビュアー 高坂春菜)

 

カテゴリー:フリー/個人事業主,代表取締役/代表

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