コンサルティングファーム勤務

渡辺恵士朗 Keishiro Watanabe


03年東高卒業。04年早稲田大学人間科学部人間環境科学科入学、08年卒業。大学卒業後は、NOK株式会社へ入社し、原価管理を担当。2011年11月に同社を退社し、某コンサルティングファームへ入社。

スケジュール

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大島郁人 Fumito Oshima

2007年に旭川東高校を卒業し、東京大学理科一類に入学。高校生の頃から、社会基盤を支える「素材」に興

田中紀恵 Norie Tanaka

留萌市生まれ。旭川東高校に入学と同時に親元を離れ下宿生活をスタート。高校3年時に理系から文系へ変更を

松木琴未 Kotomi Matsuki

2003年東高入学。その年の8月から旭川市の姉妹都市米国ブルーミントンへ一年間の留学を経験。2007

高校生のときはどんな生徒でしたか?

部活は、ラグビー部に入っていましたが、元々の運動神経が悪く、3年間ずっと補欠でした。部活以外では、友人と2人でお笑い芸人を目指して活動していました。高3の学祭で漫才を披露しましたが、身内にしか受けなく、その道に進む夢は半ばあきらめていました。そんな、宙ぶらりんな学生生活でしたが、部活やクラスの友人に恵まれていたため、楽しかったですね。

 

受験シーズンを迎えて当然のように大学進学を選択。何かをやりたいという将来の夢は特になかったので、自分が今までに好きだったものを軸に志望大学を決めました。第一志望は早稲田。小さいころから赤塚不二夫の「天才バカボン」が好きで、「バカ田大学」への憧れが強かったんです。また、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」などの妖怪や昔話が好きで、未開の地への憧れもあったので、民俗学や文化人類学を学べる学部を志望していました。条件にあてはまるいくつかの大学・学部を受けた中で、当時、エジプト考古学の吉村作治氏が教授を務めていた早稲田大学人間科学部に合格したので、そこへの進学を決めました。

 

ただ今思えば、過去ばかり見ないで、将来、自分が何をしたいかという視点も入れて大学を選べば、もっと選択肢が広がり、もっと可能性が広がっていったかもしれないとは思いますね。例えば、本当に民俗学を学んで将来に活かしたいのなら、民俗学の第一人者である福田アジオ氏がおり日本常民文化研究所のある神奈川大学外国語学部や、「東北学」の赤坂憲雄氏のいる学習院大学文学部、一時メディアによく出ていた大月隆寛氏のいる札幌国際大学人文学部、「折口学」の折口信夫氏や口裂け女研究で有名な野村純一氏などを輩出し古くから民俗学研究に力を入れている國學院大學文学部など、選択肢は数多く広がります。

自分が何をしたいか、というのはとても大事ですがなかなか難しい問いではありますよね。

特に、田舎にいると、将来の選択肢について、身の回りの大人しか参考になりませんが、世の中には想像もつかないことをやって生きている人もいます。自分の過去の経験から未来を見ずに、ゼロベースで、将来の自分がどうなっていたいかを考えて大学を選んでみれば、面白いかもしれません。

 

私は、高校生の時から日本の将来が不安だったので、今のうちから将来の目標を考えて、その目標に向かって行動してしまうと、社会情勢など外部環境が変わった時に、その目標が叶えられずに挫折してしまう可能性があると思い、高校生の時は、あえて将来について何も考えていなかった部分がありました。今も、目標をきちんと立てて、その目標に向かって邁進する生き方は、自分には向いていないと思っています。

 

しかし、目標がないことと、目標について何も考えたことがないのは全く別のこと。後者の状態では、将来の可能性という選択肢がどんどん狭まっていき、結局自分が損をするだけ。将来の目標、将来的にやりたいことについては、高校生のうちに一度しっかり考えておくのは大切だと思いますね。

憧れの早稲田大学ではどんな学生生活を送りましたか。

早稲田大学に入ったら、有名な怪獣同盟か三国志研究会に入りたいと思っていましたが、結局はたまたま勧誘された詩吟サークルと、合気道サークルに入ってしまいました。高校の時には想像もしていなかったことでしたが、そこで他の学部や他のサークル、他の大学の人たちとの多くの出会いがありました。今はそれぞれが全く違う分野で活躍していて、それぞれの物語を聴くたびに刺激になります。

 

学問の面では、もともと志望していた文化人類学、民俗学、社会学を学べるゼミに入り、福島県の喜多方市やバリ島の農村でフィールドワークを体験しました。そこで学んだフィールドワークの考え方が、社会人になった今でも、考え方のベースになることがあります。

 

フィールドワークは、現場で起きているひとつひとつの事象を積み上げて、ボトムアップで考えていく手法です。私が現在やっているコンサルタントという仕事では、ボトムアップとは逆のトップダウン的な考え方で仕事を進めることが多いですが、それだけでは上手くいかないときもあります。その時に、フィールドワークを行い、実際に現場の担当者の方々の話を聞き、現物を見て、現実に起きている事象を積み上げてボトムアップで考えると、上手い解決策が見つかることがあります。この経験から、何でもいいから学問をひとつ身につけておくと、後々の武器になると思っています。一つのことに打ち込んだ経験というのは、後で新しいことをやる上でも、必ず役に立つものですよね。

フィールドワークの経験・学びが後にも活きているのですね。

就職活動をする上でも、軸となりましたね。フィールドワークを通して「現場」に興味を持っていたので、ものづくりの「現場」に近いところで働ける業界、職種を希望しました。中でも、ものづくりでも根源に近いところに関わりたいと思ったので、消費者向けの最終製品を作っているメーカーではなく、上流の原材料や部品を作っているメーカーに絞りました。また、様々な業界の様々な会社向けに製品を卸している会社の方が、色々な会社に関わることができて面白そうだと思ったので、名の通った大企業はあまり受けずに、中堅かつ独立系と言われる企業を中心に受けました。

 

このように製造業の業界研究はしていたのですが、製造業の中にどういう仕事があるのかについては全くイメージがなく、会社に入って何をしたいかが漠然としていました。工場で働けそうという漠然としたイメージから、生産管理の職種を志望していましたが、結果として配属されたのは、生産管理ではなく原価管理の仕事でした。

 

原価管理の仕事も工場の現場に近いところで働く仕事であり、自分の適性にも向いていたので、結果としては良かったのですが、就活の時点で、もっとよく職種について調べていればよかったと思います。私は今では転職してコンサルタントの仕事をしていますが、例えば製造業向けの外部コンサルタントは、製造業の自社の営業担当よりも、工場の現場に関わることが多いこともあります。業界からやりたい仕事を選ぶのもよいですが、職種について知っていると、仕事の選択肢の幅が広がります。

 

また、業界については調べれば業界の外からでも分かりますが、実際にどういう仕事をしている人がいるかということについては、企業の内部にいないと分からないことが多いです。「原価管理」という仕事も、自分が配属されるまでそんな仕事があることを知りませんでしたし、企業によっては仕事の中身が少し違うこともあるようです。漠然としたイメージではなく、具体的にどういうことをやりたいかを考えるために、もっと多くの社会人に会って、どういう仕事が世の中にあるのかということを知っておけば、もっと楽しんで就職活動ができたかもしれないですね。

転職を考えたきっかけは何でしたか?

原価管理の仕事は、現場の方々との接点も多く、やりがいがありました。例えば、当時の原価管理システムが古く、実態に合っていなかったので、新しい原価管理システムをExcelベースで構築したり、仕掛在庫の管理プロセスの確立と運用の徹底を行ったりなど、原価管理、予算管理周りの業務について各部署の相談を受けたり提案をしてきました。その中で、私の行った改善が現場の方々に感謝される機会もあり、楽しく働いていたのですが、経験を積む中で、自分の立場では工場内の特定の業務の改善までしか提案できないという限界、少なくともそのような限界を作っている「空気」があることに、やきもきするようになってきました。10年、20年後に、たとえグループ全体の改善活動ができるようになっていたとしても、「会社」という限界があるんだなあ・・と。

 

就職した年にリーマンショックが起こったことの影響もありました。日本どころか世界中が不安定に変わっていく中で、自分の中で製造業界全体や、日本社会全体のことを考えることが多くなり、どんなに頑張っても「会社」という限界が存在する道から、他の道への転向を考えるようになりました。

 

そんな中起こった、2011年3月11日の東日本大震災。私がいた北茨城では震度6弱の揺れを記録し、電気と水道が1週間ほど止まり、勤務先の工場もしばらくの間は操業できない状態になりました。また、北茨城市は福島原発から100km圏内であったため、物流が回復して、食料や水が手に入る生活に戻ってからでも、放射能に脅かされる日々が続きました。

 

そして、市のボランティア活動への参加や、自分で立ち上げたmixiのコミュニティなどを通して、困っている人たちの姿や言葉を目の当たりにしたことで、少しでもいいから日本を変えて、困っている人を少しでもなくしたいと強く思うようになりました。そのために、まずは「会社」という枠に縛られて、限界が決められてしまっている今の環境から出なければならないと思い、退社を決意しました。

 

退社して、何をするかは悩みました。母方の祖父が旭川市の市会議員で、父は旭川の市役所や教育委員会で長年働いてきたということがあり、市民の生活に直接関わることのできる、市会議員などの仕事に挑戦してみたいという考えもありましたが、次の選挙までまだ期間があったこともあり、民間企業への転職をすることにしました。

 

転職先は、「会社」という枠に縛られずに様々な業界の企業や官公庁などに対して、何かを提案し、改善していけるのではないかという理由で、コンサルティングファームを志望しました。結果的に、官公庁や製造業向けの案件を多く手掛けているコンサルティングファームから内定を頂けたので、震災から8か月経った2011年11月に、そこへ転職しました。

 

震災が起こってからは、無我夢中で走り続けてきた気がします。震災がなければ、ここまで急激に自分の考えが変わることも、人生を変える決断をすることもなかったかもしれません。

新しい職場での抱負を教えてください。

現在手掛けている官公庁向けのコンサルティングを通じて、少しでもこの国を変え、少しでも良くしていきたいと思います。高校や大学、社会人になってからの友人の中には意識の高い人が多いので、一緒に何かできたらいいなと思うこともあります。そのためにも今は、新しい職場での仕事に全身全霊をかけて取り組みたいですね。

最後に、今の東高生にメッセージをお願いします。

やりたいことをやれるときにやり、後悔しない人生にしてください。どんな人生でも、自分さえ許せば、許されます。

 

私はラグビー部で3年間ずっと補欠でしたし、化学の定期試験で4点を取るほどの成績でしたし、これといった夢に向かって邁進してきた訳でもありませんし、辛いことも嫌なことも、これから頑張らないといけないことも山ほどありますが、今は、とてもやりがいある仕事の一端を任せられていて、仕事もプライベートも楽しめるようにまでなれました。

 

ダメな部分も含めて、今までの経験があったから、今の自分があり、今の環境を楽しめていると思っています。かなり周囲に流されて生きてきた私ですが、生きていく上では、「則天去私」や「無為自然」といったように、自分の力や意思だけではどうしようもなく、運命に身を委ねざるを得ない局面もあると思います。勝海舟が、「やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。」と言ったように、自分の運命を悲観することなく、自分の運命を受け入れつつも、自分のできることが何かを考えてみてください。結果的に失敗したとしても、その失敗を受け入れて、自分で自分を許せれば、チャンスはいくらでもあると思います。

 

思いついたことは、何でも挑戦してみてください。

 

(2012年6月)

 

カテゴリー:会社員

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