鈴木 直己 Naoki Suzuki


1977年旭川東高卒。1983年旭川医科大学を卒業し同大附属病院で1年間の小児科臨床研修後、1984年から2006年まで道東道北各地の病院と障害児施設などで小児科医として勤務。2007年から北海道内の自治体行政機関に移り、母子保健にとどまらず広く公衆衛生の観点からさまざまな業務に従事している。

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鈴木 直己 Naoki Suzuki

1977年旭川東高卒。1983年旭川医科大学を卒業し同大附属病院で1年間の小児科臨床研修後、1984

吉田歩 Ayumi Yoshida

2003年旭川東高校卒業。同年4月北海道教育大学旭川校へ入学。国語教育を専攻し、小学校、中学校、高校

越政樹 Masaki Koshi

東高卒業後、2003年4月立命館大学経営学部入学。在学中に友人と合同会社Opinist(オピニスト)

医学部に進むまでについて教えて下さい。

高校時代は物理と化学が好きでした。もともと子どもの時から科学雑誌を読むのが好きで、近所のお兄ちゃんから借りて一心不乱に読んでいたような生徒。特に3年生時に習った化学の先生にとても憧れて北大理学部に行きたいと思っていました。その方というのも清末先生(清末先生のインタビューのリンク貼付)のお母さんで、人間性がびしびし伝わる独創的な授業やテストを発案されていました。例えば、今でも覚えていますが、ポリエチレンなど数種類の高分子化合物を試験の問題用紙に貼り付けて、何かを問うテストがありましたよ。産休に入られる時は男子クラス一同で花束とNHKテレビ「おかあさんといっしょ」のLPレコードをプレゼントしたくらいみんな憧れの先生でした。お話をしたくて化学を勉強して、模擬試験トップになったくらい勉強したことも。結局は家の経済事情なども考えて地元の旭川医大に進学することに決めたのですが、当初は臨床医ではなく基礎医学分野の研究に進むことで元々の志望と折り合いをつけようと考えていました。

 

ところが、大学の講義を受け始めてかなり早い時期に「これはまずい」と思い始めました。高校時代は得意だったはずの数学、化学、物理などの講義がよく理解できないのです。高校時代までの内容なら勉強をすればできたのですが、大学の講義内容とは勿論ギャップがある。もともとそんなに得意な分野ではなかったのかもしれませんね。そこで壁にぶつかってしまいました。さらに、ようやく進級して学び始めた基礎医学は生理学にしても生化学にしても高校時代に好きだった理科系科目とは趣が違い、卒業後の進路としてイメージすることができませんでした。

それはショックが大きかったのではないですか。

それがそういうことでもなかったのです。大多数が臨床医を目指す、その連帯感もあって、自然とその方向へ気持ちが向かって行ったと言いますか。単科大学ですから同期生は100人くらいに過ぎませんが、理系大学卒のみならず文学部や経済学部卒の人やサラリーマンを辞めてきた人などさまざまな経歴の持ち主がいました。旧帝大の寮に8年間住んでいたという猛者やピアノ即興演奏の達人など多士済々で、世間知らずの若い私は圧倒されました。それでも同級生で朝野球のチームをつくったり先輩後輩と軟式テニス部を立ち上げたりと、よく遊びそしてよく学んだ6年間でした。毎年の進級試験はとても厳しく一人では太刀打ちできないのでグループ学習と称して数人が集まって勉強します。そのような環境で自分も医師になるという覚悟が自然に固まっていきました。そして各科の病院実習を終える頃には小児科医になることを決めました。小児科の講義や病棟実習でお世話になった先輩たちのヒューマニズムに共感したこと、子どもたちと接する仕事のほうがモチベーションを保てると実感したのが主な理由でした。

 

大学附属病院で一年間の研修後は、旭川医大1期生の4年先輩が医長を務める病院で地域医療を教えていただきました。大学病院は高次の医療を必要とする患者さんが多かったので、第一線の地域医療に触れたのはここが初めて。その後3年目に異動した病院では通常の病棟患者や外来患者の診療はもちろん、土日・夜間の救急対応を全て任されることになりました。現在の臨床研修制度がスタートするずっと前のことであり、指導医のもと卒後2~3年目の若手が地域医療をこのような形で担っていた時代でした。

 

まったくの一人で夜間対応するのは、怖かったです。だからこそ一生懸命勉強しました。半年過ぎたころから少しずつ自信を持てるようになりましたし、やりがいを感じる余裕も出てきました。進歩の勾配を一番感じた時期ですね。

プライベートはいかがでしたか。

休みとは縁のない生活でした。ただ覚悟はできていましたね。初めて出勤した日、医局長から「小児科には土曜も日曜も休日もない」と言い渡されていましたから。今は大分勤務条件が良くなりましたが、当時はそれが当たり前でしたからね。しかし振り返っても、自由度は極めて少なかったと思いますね。

 

例えば、携帯電話はまだ世に存在せずポケットベルすらサービスエリアからはずれた地域でしたから、外食や買物で出かける時は必ず病院の詰所に行先の電話番号を伝えなければならず、実際にスーパーマーケットの場内放送で呼び出しを受けたこともありました。

 

そんな中でも、他科の医師やコメディカルスタッフと仲良く楽しく働けたおかげで、すごく充実した日々を過ごすことができました。当時の頑張りと多くの経験はとても大きな貯金になりました。

 

ただ、新婚にもかかわらず見知らぬ土地で寂しい思いをした妻には苦労をかけたなあと。子どもが産まれてからも一緒に過ごすことがとても少なかったので。最近ですよ、いいお父さんになったねと冗談めかして言われるようになったのは(笑)

研修医を終えてからのキャリアについて教えて下さい。

卒後6年目から3年間は大学病院で、小児内分泌班に所属しました。遺伝子工学の発展により成長ホルモンなどを人工的に合成して治療に使えるようになった時期で、世界的に小児内分泌学は活況を呈していました。国際学会の発表機会を与えられるなど、とても貴重な経験をさせてもらいました。日中は外来や病棟での診療がほとんどで、夕方から実験という日々。ある一つのホルモンの測定法を開発、データを測定し、論文を書くことが目標でした。しかしノウハウがなかったことや時間的な制約のため、入り口に近いところで頓挫してしまい、ある種の挫折感とともに大学を離れて異動することになりました。

 

新しい職場は重症心身障害児施設でした。てんかん発作、栄養、呼吸など日常的な医学的コントロールだけではなく、相次いで何人もが重症肺炎になり集中治療室的な濃厚医療に追われることもよくありました。一方では、道北道東の重度障害をもつお子さんの家庭に児童相談所の職員と帯同して巡回診療を行う、養護学校(当時)の修学旅行に付き添い医師として参加するなど、医療従事者以外の方々と一緒に地域に出向く機会も数多くありました。このような経験によって知己も増え、医療従事者だけでなく福祉や教育などの視点を学ぶことができました。

 

今まで病院で経験してきた「治療」とは全く異なる世界が広がっていました。治ることよりも、より良く生きて行くことに重点をおくこと。病棟だけでなく調理スタッフや養護学校の先生らと連携し、一人ひとりの子どもたちを、それぞれの立場でサポートすること。学童期の子どもたちの訪問指導では、音をつかったり、ゆらゆらしたり、感覚へ訴えかけるアプローチをとること。そういう新鮮な驚きに満ちた日々でしたね。10年近くをこの施設で過ごしました。

 

しかし、かつて自分が携わっていた病棟での第一線の仕事を担う若い人材が出てくると「自分はこのままここに居ていいのか?」という自問が始まります。役割というのは、年齢とともに変わってくるもので、たいていの場合は役割がマネジメントにシフトしていきます。しかし、自分は現場の仕事が性に合っている。ここにこのままいるか、新たな役割を探すかという葛藤の末、しばらく離れていた一般小児科臨床医に戻ることを決意しました。ところが、新たに勤務した病院では私の力不足のために病院経営のうえで全く貢献することができず、結果として小児科部門が閉鎖され私はフリーランス医師として働くことを余儀なくされました。それは子どもたちの教育に最も時間と経費がかかる頃でしたので途方にくれました。自宅から遠く離れた地であれば常勤雇用の話はあったものの、家庭の事情と年齢相当の体力低下を考えると単身赴任で若い時と同じように働くことには踏み切れませんでした。そのように悩みながら半年ほど経過した頃、大学時代の先輩から行政医師として勤務してみる気はないかとの連絡がありました。熟慮した末に面接を受け、運よく採用が決まり翌年からは現在の行政職に就くことになります。

医師と医療行政、これもまた全く異なる世界だと思いますがいかがですか。

これまでの臨床医としての仕事に近い業務もあります。例えば、乳幼児健診やHIV検査、結核健診など医師として診察室で行う日常業務。ただし、病院のように精密検査や治療をすることはなく、必要に応じて専門医療機関を紹介することが目的。医療・保健・福祉の面で多様な課題を抱える方々に、どのような支援を行うかを他のメンバーと全体感を持ちながら対応するチームの一員でもあります。チームの関係性は非常にフラット。メンバーは、第一線に立つ保健師に加え、臨床心理士、児童福祉士、教育・介護施設、事務職などですね。臨床医は個々の患者さんと一対一で接し、治療やQOLを考えていくうえで先頭に立つことが多いですが、行政機関においては医師職としての知識や経験を生かして方針決定の協議に加わるという裏方的仕事が多いです。人と接するという点では同じですが、病院の医師と患者さんとの関係性とは少し違いますね。つい先日、臨床医時代の受持ち患者さんと再会を果たしたのですが、このような喜びとは縁遠くなったかもしれません。

 

また、個人や家庭の支援だけでなく地域や市全体、場合によっては国レベルの健康対策に参画・従事することも大きな役割です。最近の具体例としては2009年のインフルエンザ・パンデミック対策、新しい予防接種制度への対応、結核集団感染対策、東日本大震災後の現地での支援活動などが挙げられます。

 

一口に行政医師といっても官公庁や自治体によって採用の時期や方法はさまざまです。大学の同級生には学生時代から「オレは霞が関に行く」と言い続けて初志を貫徹し、卒業後すぐに旧厚生省に入った人もいました。国や都道府県では大学新卒の採用もあるものの、その他はむしろ臨床経験者の中途採用が多いようです。

医療を巡る様々な職場を経て、今の生活をどのように捉えていらっしゃいますか。

医療と医療行政を経験して感じることは、「ある場所での常識は、必ずしも他の場所での常識ではない」ということです。どちらがどうということではなく、違いを認識することが重要だと思います。

 

複雑な経歴になりましたが、得られた経験や人脈は大きな財産ですし今の仕事にも生かされています。そんな自分を尊重してくれる職場環境に感謝しています。40代以降はめっきり体力の衰えを感じていますが、今は比較的生活リズムを整えやすい勤務なので健康維持の面でも助かっています。

 

(2012年7月 インタビュアー 高坂春菜)

 

カテゴリー:公務員,医療系専門職

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