映画監督/脚本家

鈴木 聖史 Suzuki Satoshi


旭川東高校卒業後、1年の浪人期間を経て明治大学理工学部へ進学。大学在学時より東映撮影所で編集助手として映画制作に携わる。卒業後は東京の医療機器メーカーに就職。仕事の傍らで映画の自主制作を開始。映画祭での入選・最終選考選出を経て、2010年『ある夜のできごと』で自身初の劇場公開を果たす。2013年オール旭川ロケの新作の制作を開始。

スケジュール

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伊勢昇平 Shohei Ise

2004年旭川東高等学校を卒業、帯広畜産大学に入学。2008年に同大学を卒業後は、1年半にわたり十勝

鈴木 聖史 Suzuki Satoshi

旭川東高校卒業後、1年の浪人期間を経て明治大学理工学部へ進学。大学在学時より東映撮影所で編集助手とし

三堀大介 Daisuke Mitsubori

1989年東高卒。武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業後、株式会社パルコプロモーション(現パルコス

大学時代から映画制作に携わっていらっしゃったそうですね。

もともと映画を観るのは大好きでした。高校時代は新聞欄に載っている映画は全部見ていましたし、大学時代は多い時で一日6本観たことも。当時は今より邦画作品が少なくて、『ジュラシック・パーク』のようなCGを駆使したハリウッド映画が全盛。最初はデジタルハリウッドでCGの体験実習に参加したりしていましたが、より映画を作るほうに深く携わりたいと思うようになりました。

 

その頃の大学生にしては珍しく、僕はPCを持っていて、何となく映像制作を調べていたときに、東映撮影所の編集助手の募集を見つけたんです。大学1年生の夏でした。手弁当でしたが、映像制作の仕事を自由に勉強させてもらったから、嬉しかった。その時期は、学校へはほとんど行かず、バイト、東映、バイト、東映の生活。そのために、卒業時期には人一倍苦労しました。通常は1年生で履修する英語を4年で履修しましたね(笑)

 

東映撮影所で勉強させていただいた作品は戦隊もの。当時、戦隊ものは伝統的にフィルムで撮影をしていました。編集助手の主な仕事は、撮影後にフィルムとフィルムを編集の指示に沿ってつなぐ「荒編(あらへん)」とネガ自体を編集する「ネガ編(ねがへん)」。よくテレビなんかで、ガラガラっと回るフィルムの上下に白い下書きが写り込む映像を見ることがありますよね。あれが荒編まで終わった状態。編集が書いたつなぎやエフェクトの指示が残っているんです。

 

東映ではアフレコや他の現場にも参加させてもらえたし、先方からも東映に残ることを薦められていましたが、映画を作りたいという気持ちはいよいよ強くなりました。その時お世話になっていたチーフに、映画を作りたいなら、監督をするしかないと言われました。つまり、脚本を書いて、カメラで撮影してはどうだと。カメラはカメラでありさえすればどんなのでもいい、今の自分が買えるレベルの機材で撮れなかったら、一生撮れないと。

観る側から作る側へというのは大きな隔たりがあると思いますがいかがでしたか。

ハンディカムを買って、仲間を集めて、やっと脚本のようなものを書いて撮り始めるまで1年かかりました。映画を撮るのがカッコいいという気持ちだけで撮り始めて。でも作り始めるとメンバーとの衝突が必ずあるじゃないですか。僕がいいと思っているものを、いやそれは違うと言われる。勉強やスポーツで指導されるのとは違う、センスを否定されるということが、それまで経験したことがないショックだったんです。結局チームはうまくいかずに空中分解し、初めての作品は未完のまま終わることになりました。

 

その後大学卒業まで作品を撮ることはなかったのですが、東映撮影所とは話をしていて、卒業後は映画の仕事に就きたいと思っていました。しかしその夢を打ち明けた父は大激怒。勘当も辞さない勢いでした。「夢はわかるけど、お前は生きていかないといけないんだ」と言われて、その一言が響いたんですね。一度映画の道を離れることを決意し、医療機器メーカーに就職しました。

 

就職後すぐ名古屋へ配属され、ツテがなくなってしまったこともあり、2~3年は映画の世界から遠ざかっていましたが、脚本は書いていました。数本、東京や地元の友達と撮影した作品がありますが、ひとに見せたりはしていませんでした。そろそろ名古屋で撮影しようかと思い始めた頃に東京への帰任の辞令が出て、帰京をきっかけに撮影を開始しました。

 

当時はちょうどmixiが立ち上がった頃でした。当時のmixiは技術者も含めた映像制作関係者が多くコミュニティで自主制作を呼びかけると、すぐに数名が集まりました。その他にも縁あって集まったメンバーとは、今も一緒に映画を作っています。

 

その時手がけた短編が、(ひとに見せられるという意味で)初めて完成した作品です。日常のすぐ隣にある奇妙な世界を描いたもので、これが評価され、その後も好きでSF作品の制作を続けました。

ご縁もありますが、それを引き寄せて、実際に作品を作ってしまう行動力をお持ちですよね。

大学生の頃は、映画監督を検索して、上から順番にメールを送っていたりしていました。「映画監督になりたいです。どうしたらなれますか」って(笑)そうすると、意外と会ってくれる人もいて。

 

ある方からは「自分で作品を撮りなさい」と東映のチーフと同じアドバイスをもらいました。でも1年後あらためて時間をもらったとき、僕がまだ脚本も書けていなかった。そのとき「ダメだよ。それじゃあ監督になれない。」と怒られたのを今でも覚えています。そうして、後押ししてくれる人がいたんですよね。

 

あと僕、飲んで夢を語るタイプで(笑)でもそのうち、気づくんですよね。このままだと本当に自分の人生で映画を作れないんじゃないかって。その怖さがあったんですよ。このままだと何も出来ずに終わっちゃってカッコ悪い、という強迫観念が強かったというのかな。とりあえずやってみようと思って撮りました。

無事作品の完成にこぎつけた後、どうされたのか教えてください。

自主制作は、一旦自費で制作を行います。上映をして会場費くらいは戻ってくる。そしてまた撮る。その繰り返しです。映画監督としては作品を映画祭に出品しグランプリを獲得するというのが通常のシンデレラストーリー。ただし賞を取るのと、そうではないのとでは、天と地ほどの差がある、そういう世界です。僕も映画祭への出品を繰り返していたのですが、グランプリには届かず。

 

段々と評価されない中でそれを続けるのが辛くなってきて、そろそろこれが最後の作品かなと、初めてSF抜きで人間ドラマに取り組んだのが『ある夜のできごと』。奇しくもその作品が劇場で公開がかかることになったんです。全国オーディションをして、芸能プロダクションとの仕事という映画制作のプロセスを踏めたのは、それが初めてのことでした。ちょうどそれが32歳の頃。諦めた頃に来たチャンス、不思議な気持ちでしたね。

『ある夜のできごと』は旭川でも上映会をしたそうですね。

作品の公開自体は、制作を支援してくれた山梨や都内の劇場など全国5カ所で行ったのですが、公開が終わってから地元でも上映したいと思ったんです。昨年(2012年)の9月1日に、DVDレンタル開始を記念して、手作りの上映会を実施しました。学生時代の同級生が中心になって上映会の事務局、集客、そして当日の運営をやってくれました。

次回作は旭川が舞台だそうですが、なぜ今旭川なのですか。

もともとは地元に頻繁に帰る人間でもなければ、同窓会に顔を出す人間でもなかった。地元と距離をおいていたのに、上映会を機につながるとあっという間に元通りの関係性になるんですよ。東京で出来ることも沢山あるけど、地元の友達同士じゃないと出来ないこともあるんだなと感じました。それに、僕の場合は35歳になって出来ることが増えてきて、地元で映画を使って何かしたいという気持ちが湧いてきたんですよね。

 

地元には育ててもらったという気持ちがあるし、映画は多くの人と一緒に作り上げることができ、映画を通して伝えられるものがきっとあると思っています。協力してくれる方とのひょんな出会いもあり、行動を起こすには良いタイミングだったので。

 

今作では、地元を離れた人間と、地元に残った人間という、普遍的なテーマを撮ろうと思っています。東京で暮らす人にとってはシーンごとに顔を使い分けることがあると思いますが、一方地元では顔を使い分けると不信感を生むことも。そうして10年間それぞれの世界で暮らしてきた人間が再会するというストーリーです。本編制作に先立って、スピンオフ的位置づけの短編映画も撮ります。

 

今ちょうどその短編の撮影に入ったところです。様々な関係者に協力してもらっています。サポートして下さる方の中には、東高の先輩もいらっしゃいますよ。様々な分野で活躍されている先輩方にお会いするたびに、東高の伝統を感じます。

鈴木さんは、脚本もご自身で書かれていますよね。

僕の場合は、脚本と監督がセット。それに編集も自分でやります。脚本は世界とひとの人生を作れる。そしてその自分が一番分かっている世界を、監督・編集を通じて現実に生み出すというのが、一番僕にとっては面白いんです。

映画のお話を中心に伺ってきましたが、平日は会社員なんですよね。

はい、映画関連のことに取り組むのは、平日退社してからと土日、祝日ですね。撮りたいシーン、表情、テーマなんかを思いつくとノートにメモしておいて、熱量が上がっているときに集中して書き上げます。

二足のわらじは、大変ではないですか。

もうこの生活を10年続けていますから、この生活には慣れました。それに、会社員の生活があるからこそ、僕は安定して映画を撮ることができているなと思うんですよね。映画は僕が唯一ずっと情熱を注いできたもの。大切に撮れることが嬉しいし、今の僕には合ったスタイルだと思っています。

 

(2013年4月 インタビュアー 高坂春菜、森田歩、松岡理恵、熊谷茉佑、フェアウェザー未央ジューン、五井勇人)

 

カテゴリー:フリー/個人事業主,会社員

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